江戸前期(17世紀)

江戸幕府の成立と本願寺の東西分裂

  慶長5年(1600年)9月、岐阜県本巣郡関ヶ原にて、天下分け目の戦いが行われました。世に名高い、関ヶ原の戦いであります。この戦いに圧倒的勝利を治めた徳川家康は、慶長8年(1603年)に朝廷より征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きました。ここに、徳川幕府体制が基本的に成立し、三百年に及ぶ江戸時代が始まりました。 徳川家康の統治形態は、実に巧妙であり、政治・経済面は言うに及ばず宗教・文化政策にまで及びました。このような時代背景の中で、慶長7年(1602年)に本願寺の東西分裂は起こりました。
 
本願寺第11代宗主顕如(けんにょ)上人は、豊臣秀吉の寄進を受け、京都六条の地(現在の西本願寺の寺域)に本願寺の寺基を移転し、念願であった京都に本願寺を再興されました。織田信長との10年(1570年〜1580年)に及ぶ石山戦争(一向一揆の敗北後、本願寺は大阪から寺基を転々と移さざるをえず、苦難の歴史を歩んでいましたから、顕如上人の喜びは大変なものでありました。文禄元年(1591年)7月の事であります。ところが、同年の11月に顕如上人は突然崩じられ、長男の教如(きょうにょ)上人が、本願寺第12代宗主を継承されました。しかし、顕如上人の御裏方である如春尼が、3男である准如(じゅんにょ)上人に、亡き夫である顕如上人が本願寺宗主の譲り状を書いていたとして、当時の天下人である豊臣秀吉に訴えた事から、事態はややこしくなり、文禄2年(1592年)に譲り状に従って、豊臣秀吉は教如上人に隠退を命じ、第12代本願寺宗主は、准如上人が継承されることとなりました。

本願寺第11代宗主顕如上人絵像
(週間ポスト第1618号逆転の日本史)

一方、隠退させられた教如上人は、裏方と呼ばれていましたが、豊臣秀吉の死後、天下の情勢は大きく動き、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が天下を握る事となりました。教如上人は、関ヶ原前後から積極的に家康に近づき、慶長7年(1602年)2月に、家康から京都烏丸6条の地に寄進を受け、ここに本願寺と称する別寺を建てました。 このときから、本願寺は、西本願寺と東本願寺に二分され、西本願寺は、准如上人を第12代宗主とし、東本願寺は、教如上人を第12代宗主とします。このように、本願寺は両派に別れ、双方の敵対意識は抜き差し成らぬものと成って行きました。調度、この時代の明源寺(正式には明源道場)住職は本願寺に帰依して5代目の玄正(げんしょう)法師の時代に相当しました。
   玄正は、慶長16年(1612年)に、本願寺(西)第12代宗主・准如上人より帰命尽十方無碍光如来(きょうじんじっぽう)の十字名号(みょうごう)を受けています。裏書きには、慶長7年(1612年)の事です。尚、この十字名号は、昨年実施された蓮如上人の五百回遠忌法要に際して、お同行衆の懇志にて修復をされています。

正保4年(1647年)7月14日、本願寺(西)13代宗主・良如(りょうにょ)上人より、寺号(じごう)明源寺が、免与されました。ここに、明源寺は悲願であった寺号を正式に名乗る事が許されたのです。山号(さんごう)は、旧東禅寺の山号である足下山(たしたさん)をそのまま使用いたしました。明源寺第6代善正(ぜんしょう)の時代です。この寺号免与状の裏書きには、興正寺殿御門徒法盛寺下明源寺とあります。この裏書きの示す所は、今後、本願寺からの伝達事項は、興正寺から法盛寺に。法盛寺から明源寺の順番で降ろされ、申請は、この逆に上がっていきます。このような関係を本末関係(ほんまつかんけい)と呼びました。ところで、全国の東西本願寺に属する真宗寺院の中で古い歴史を持つ真宗寺院は、江戸初期に寺号を東西本願寺から与えられたケースが多い事に気がつきます。その理由は、本願寺が東西に分裂した結果、一カ寺でも多くの末寺を確保する必要にせまられました。その手段として、寺格の昇進や、各地の道場に積極的に寺号を与える等の手段が取られました。これを帰参改派の問題と称しました。
 一方、各地の道場主の寺院昇格の願いは切実なものがあり、ここに双方の利害が一致したのです。
しかし、寺院昇格である寺号免与は、東西本願寺が末寺欲しさに、末寺の数を急増させていた当時でも、簡単に行えるものでは無かったのです。なぜならば、寺号免与には多額の礼金が必要とされていました。森竜吉著『本願寺』によれば、寛文2年(1622年)を参考にすれば、寺号免与に必要な金額は、お米に換算すると11石程度に成ったようです。その上、取り次ぎや上寺への礼金が重くのしかかりました。
  このように、道場の寺院化には多額のお金がかかりました。その為、員弁郡古史考集禄地の巻きによれば、江戸後期に当たる文成10年(1827年)の段階でも、員弁郡内に西本願寺の末寺は18ヵ寺(現在は、38ヵ寺)しかありません。

更に、道場を寺院化するためには、浄土真宗本願寺派(西本願寺の正式名称)の場合、本尊である阿弥陀如来の木像。宗祖・親鸞聖人御影(ごえい)・聖徳太子御影・三国七高僧御影・前住上人御影の5つが礼拝の対象となるために、本堂内の安置が絶対条件でした。これを5尊(そん)と呼びます。しかも、江戸時代の後半までは、この5尊は本願寺からの下付(かふ)に順番が決まっており、まずは木仏本尊(阿弥陀如来木像の事)の安置免与が行われ、そして寺号が免与されます。そして、聖徳太子御影→三国七高僧→前住上人御影の順番に下付が認められて行き、最後に人々が求めてやまない宗祖・親鸞聖人の御影が下付されました。明源寺の場合は、極めて異例ですが、本来ならば本願寺から一番最初に下付される筈の木仏本尊の下付はなく、直接寺号免与となります。これには訳がありました。元久元年(1204年の事を(明源寺略史上巻参照)申し述べ、今まで大切にお守りしてきた春日作の阿弥陀如来像を、現在も明源寺の木仏本尊として安置しています。その他、下付物については、規定通りの順番で下付されています。聖徳太子御影と三国七高僧御影は、寛文3年(1671年7月9日に。前住上人御影(この場合は、本願寺第13代宗主良如上人をさします。)は、宝永8年(1711年)の4月9日に下付されています。このように、明源寺の場合でも寺号免与以来実に70年余りを経て5尊が完備したことになります。


さて、明源寺の基礎を確立された善正ですが、この時代から明源寺が所有する最古の本が存在します。寛永3年(1626年)に、京都の西村又左衛門が発刊した分類聚抄・愚禿抄・入出二門の合刻本(いづれも親鸞聖人が著わされた書物)です。勢州(三重県の事)明源寺蔵書と書かれ、明源寺善正の署名があります。この他に、善正時代の書籍としては、法苑珠琳全60巻が、寛文9年(1669年)に京都の書林村上平楽寺より発刊され、善正の署名があります。この本は、中国の唐時代の西明寺の僧であった沙門道西が著わした本であり、全巻揃っているのは極めて珍しい事です。
 更に、西野尻御門徒の中で、
釈良如の署名と花押の入った『冊子本ご文章』をお持ちの方が存在します。現在の処、明源寺門徒衆の中で確認できる『最古のご文章』です。手垢で真っ黒に汚れたこのご文章は、350年の時空をかけて現代に伝わり、今も大切に朗読され、蓮如上人のみ教えを今に伝えています。
 そして、明源寺の基礎を確立された明源寺第5代住職・
善正は、寛文10年(1670年)9月19日に往生されています。

明源寺と葛山一族
  静岡県裾野市を発祥とする葛山一族は、戦国末期に一族離散となり、各地に離散となりました。その中の一部が、縁をたどって北伊勢にも流れ、現在も北伊勢に葛山を名乗る人々が生活しています。そして、北伊勢の葛山一族を名乗る家紋は、左巴です。明源寺住職一家の家紋も、正式には明源寺葛山の家紋である左金輪巴ですが、普段は左巴を使用しています。その理由は、明源寺住職一家の姓からも理解できます。現在は古寺(こてら)ですが、明治5年(1872年)7月までは、葛山を名乗っていました。当時の住職正因(俗称 有政)が、政を葛山から古寺に改姓したのです。この事は、大正4年(1915年)4月に員弁郡役所が発行した員弁郷土資料に明記されています。ご承知の通り明源寺の山号は、足下山ですが、江戸期の文献(員弁雑紀等)を見ると、葛山山とも称したともあります。このように、明源寺と葛山一族の繋がりは極めて強いものがあります。文献上明源寺と葛山一族の関係を調べてみますと、明源寺系図に次の事が出て参ります。明源寺第6代住職・善正(1670年往生)の妻は、当村の葛山七口在衛門の娘と書かれています。この葛山七口在衛門は、現在の葛山立生家の祖であると言われています現在でも、葬儀において当地においては、棺の釣り手は濃い親戚があたります。ところが、明源寺の場合は、棺の釣り手一人は、一貫して葛山立生家の当主が勤めます。これは、明源寺と葛山一族の深い関係を物語るものであります。
 戦国末期の動乱の中で、駿河国(静岡県)の駿東郡の
国人領主としての地位を失い、一族は離散の運命となりました。その後、葛山一族の一部は北伊勢に移動してきました。その理由は、葛山一族に縁の深い浄土真宗本願寺派(西)の寺院が三ヶ寺存在したことによります。一つは、四日市蒔田の長明寺、一つは、三重郡朝日町小向の浄泉坊、一つは員弁郡藤原町の明源寺でありました。長明寺の蒔田一族は、葛山一族と同じ藤原氏一族、浄泉坊と明源寺の住職の姓は葛山でありました。このように、葛山一族は縁を辿り、遅くても、1670年までには、藤原町東禅寺に存在したと考えられます。詳しくは、明源寺略史4巻(明源寺と葛山一族)を参照して下さい。

明源寺第7代住職正雲の時代(17世紀後半)
 寛文11年(1671年)に、善正の後を受けて、正雲が明源寺第7代住職となりました。この時代から、明源寺には過去帳が存在していたようです。残念な事に、文政6年(1823年)の東禅寺大火事の為に、過去帳の上部が焼けこげ、判読できる最古の年号は、享保12年(1726年)からとなりますが、門徒衆の御仏壇の繰出しの法名を拝見すると、元禄5年(1692年)の法名も存在しており(東禅寺、清水三之氏の祖)、火災のために失われた部分があることは極めて残念な事です。現在、過去帳は各家の先祖を調べるうえで大変貴重な記録と成っていますが、過去帳本来の意味は全く別の所にありました。過去帳は、檀家制度と深い関係があります。この制度は、江戸幕府がキリスト教禁止に伴う宗門改めにあたり、その実施方法として採用した寺請け制度と深く関係しています。慶長18年(1613年)に、江戸幕府が全国的にキリスト教禁止を発布した時、京都所司代の板倉勝重はキリスト教徒の改宗が本当であるのかを証明するために、寺院からその事を証明させる清書を提出させたのが始まりといわれます。これを寺請制度と呼びます。寛永14年〜15年(1637年〜1638年)の島原の乱以降は、特に厳重に実施され、各藩の領内で全住民を対象として宗門改めが実施されました。この時、寺請制度が宗門改めの有効な手段として各藩で採用される事となりました。


 この寺請制度が、全国に普及するのは、寛文年間(1661年〜1672年)であると言われております。そして、寛文11年(1671年)に宗門改の方法を命令しており、それによると、全住民は一軒ずつ人別・年齢・宗旨を書き、一家の主が捺印し、僧侶がこれを証明する事とあります。これを宗門改め・宗旨人別帳と呼び、定期的に調査が実施されました。この際、僧侶の証印がいるという、いわゆる寺請制度が全住民に適用され、ここに檀家制度が成立したのです。宗門改めは、人々の信仰調査ではなく、キリスト教徒であるかないかの調査でした。必ずしも、仏教信者でなくとも、形式だけ檀家として寺院に所属すればよいわけでした。この檀家制度を示すものに過去帳があるのです。檀家と成った門徒の死亡年月日、住所、氏名、法名を記し記録としました。ですから、過去帳はどんなに古くても寺請け制度が一般化する寛文11年以降となります。この様な意味からも明源寺過去帳は、現存の部分でも古い過去帳の部類に入る貴重な物であるといえます。さて、この第7代住職・正雲の妻の名前は、明源寺系図の落剥がひどく不明ですが、5人の子供がありました。長男の正岸は、明源寺第8代住職となりました。次男の湛海は、員弁郡大安町平塚の西岸寺へ養子となりました。円長寺とは、現在の演暢寺の事です。寺号が食い違っているのは、文化8年11月に円長寺第15代住職・戒浄が寺の名前を改めたのが原因です。長女の三弥は、村の市在衛門に嫁ぐとあります。次女の名前は、判読不可能ですが、村の□□□□門に嫁ぐとあります。この次女の嫁いだ近藤家の当主は、5代目の近藤十在門と考えられます。
この時代、正雲の子供である正岸(後の明源寺第8代住職)は、元禄3年(1690年)に、明暦4年(1658年)に京都の石村九郎右衛門が出版した正信念仏げ要解(全四巻)を購入しており、この本の裏に元禄3年11月の日付と沙門正岸の署名があり、手垢に汚れたこの本から、念仏の心を学習された正岸の心息が伝わってくるようです。


明源寺第8代住職・正岸の時代(18世紀前半)

宝永11年(1711年)正雲は、明源寺住職を正岸に譲りました。ここに、明源寺第8代住職が誕生しました。この年の2月27日、教興院様(良如上人)御影が本願寺・第13代宗主寂如上人より下付されています。そして、門徒が一番切望した親鸞聖人御影が、同じく、宝永11年4月7日に寂如上人より下付されています。裏書は、次のようになっています。『大谷本願寺親鸞聖人真影 釈寂如(花押) 宝永8年4月9日 興正寺殿御門徒法盛寺殿下伊勢国員弁郡東禅寺村 明源寺寺物 願主 釈正岸』と成っています。

 ここに、本堂礼拝物として必要な5尊が揃い、名実共に浄土真宗本願寺派寺院として完成したのです。

 そして、享保5年(1720年)4月20日に、本願寺第14代宗主・寂如上人より、明源寺の寺の位を表す(寺格と呼びます)『国絹袈裟』が免与されました。当時の本願寺教団は、蓮如上人の平座の精神を忘れさり、本願寺宗主を頂点とするピラミッド体系を築きあげていました。寺格を表す位として、節目院家・準院家・内陣・余間・三之間・飛縁・初中後・国絹袈裟・平僧と言った幾つもの階層が決められていました。国絹袈裟は下から2番目にあたります。しかし、本堂内の礼拝物である5尊が揃わないかぎり、平僧から寺格が昇進するのは無理であり、明源寺も親鸞聖人の御影が5尊の中で最後に下付され、なにがしかの懇志を納めて、やっと国絹袈裟に昇格したと言うのが実状でした。正岸は、急病の為に、享保5年(1720年)8月24日に、父親の正雲に先立って往生されています。この正岸の妻は、畑毛与治右衛門の娘と成っています。畑毛与治右衛門とは、どのような人物でしょうか。この正岸の妻は、安永5年(1776年)12月17日に往生されており、法名を釈尼妙光といいました。89歳でした。釈尼妙光の父親の姓である畑毛(はたけ)とは、北勢町の畑毛をさすものと思われます。員弁史談という郷土誌の『畑毛村訪考』を見ますと、東屋敷の庄屋を寛政8年(1796年)まで勤められた川瀬与治右衛門一族の事が出て参ります。この川瀬与治右衛門一族と、明源寺系図に言う畑毛与治右衛門は、同一であると思われます。この女性は、八十九歳で往生していますので、逆算しますと貞享4年(1687年)前後に誕生した事になります。畑毛東屋敷の庄屋川瀬与治右衛門一族の娘が、明源寺に嫁がれた事は間違いありません。


明源氏第7代住職・正雲、第8代住職・正岸時代の本願寺からの下付物

上宮太子(聖徳太子)御影

1671年7月14日下付

この度の蓮如上人500回忌法要に、御門徒有志により修復された。

最古の過去帳(1726年)

過去帳の形式である門徒の死亡年月日、住所、氏名、法名が書かれてあるのが判る。写真では、判読できないが周囲が1823年の大火事で黒く焼けている。

明源寺門徒過去帳

写真上左が、文化六年(1826年)の東禅寺大火事で、過去帳上部が焼けてしまった後が残る最古の過去帳である。享保14年(1726年)の文字が見える。


明源寺第9代住職・怒正の時代(18世紀中頃)
 享保14年(1729年)9月9日、明源寺第7代住職であった正雲は往生し、孫のが明源寺第9代住職となりました。怒正には、4人の子供がいました。長女は、大安町平塚の西岸寺に。西岸寺には、過去にも明源寺第7代正雲の子供である湛海が養子として入寺しています。長男の正傳は、明源寺第10代住職として期待されていました。次男の玄門は、三重郡朝日町小向の浄泉坊に入寺しました。この寺の住職の姓は、葛山でした。朝日町史によれば、浄泉坊は安永5年(1776年)に本願寺宗主本如上人から、太田尼本願寺親鸞聖人真影を下付されています。その裏書きには、『安永5年興正寺殿門徒法盛寺下伊勢国朝明郡小向浄泉坊寺物 願主釈玄門』と有り、明源寺系図の玄門と朝日町史の釈玄門は、安永5年という年代を考えれば同一人物であると言えます。次女の法名釈尼智貞は、東禅寺の清水利文家(清水三之家の分家)の先祖である法名釈善海(東禅寺新町庄屋東松家出身)、俗名 金四郎に嫁ぎました。彼女は、天明2年(1782年)に往生しています。明源寺第1代正道の流れは、歴史の荒波の中で、今ではこの清水利文家にのみ現在伝わっています。 さて、後継住職として期待された正傳の妻は、桑名藩松平下総守家来である大根田七右日衛門の娘でした。法名を釈尼純意と言います。彼女の父である大根田七右日衛門は、桑名藩の寺社奉行の地位にあり、280石とりの高級武士でした。時代は、少し下りますが、文政6年(1823年)に、東禅寺村庄屋近藤家が書かれた『御藩中御没順路』と言う記録書があります。この記録書は、松平越中守様の全家臣団の名簿と俸禄を記録した物です。この記録書に登場する直属家臣団総数は600名余り。その中で、300石以上の家臣は一門衆を入れても30名弱です。280石と言う俸禄は、桑名藩においては一握りの高級武士でした。何れにしても、桑名藩領にある明源寺にとっては最高の縁組みでした。伝承によれば、花嫁道中は2日間。婚儀は盛大であったと伝えられています。法名釈尼純意が持参した数々の品が、今も一部ですが、明源寺に伝えられています。母の形見として持参した、赤い観音と呼ばれる掛け軸。蒔絵入り野外弁当。家紋入り重箱。手書きの小倉百人一首。捕り物用槍三本等です。そして、彼女は寛政元年(1789年)12月27日に往生しています。

明源寺衰退の時代(18世紀後半)
 法名釈尼純意と正傳との間には、残念ながら実子が誕生せず、正傳の養子という形で、隣寺の西教寺から正随が入寺します。明源寺第9代住職であった怒正は、法名釈尼純意と同じ寛政元年(1789年)1月15日に75歳で往生されました。怒正の時代の本願寺からの下付物としては、享保16年(1733年)3月9日に、本願寺第15代宗主・本如上人より信解院様(寂如上人)の御影を受けています。明源寺第10代となる予定であった正傳は、父である怒正に先立ち、天明2年(1782年)11月3日に往生されており、天明3年(1783年)から寛政4年(1792年)までの過去帳は、正随が書かれています。ですから、明源寺第10代住職は、正随を当てています。しかし、正随も寛政4年(1792年)12月9日に28歳の若さで往生されています。その後、明源寺は寛政5年(1793年)から寛政12年(1800年)まで、8年の長きに渡って住職のない無住の時代が続きます。その為に、□□寺が1年間。△△寺が3年間。◇◇寺が4年間。合計8年間の間、3ヶ寺が代務住職を勤められています。しかし、住職がいないという事は寺院にとって実に悲しい事で、この無住の8年間は、過去帳すら残っていないのです。後に、明源寺第11代住職となる正晃をして、文化8年(1811年)の過去帳の裏に、『正随法師死去後無住。当山兼帯。□□寺、◇◇寺両寺の内、門徒死去過去帳無文故に年月日法名不相知。10年余無住後拙僧住職。茲に過去帳改』と書かずにはおれませんでした。


明源寺再興の時代(19世紀前半・中頃)
文化3年(1806年)11月6日、本如上人より『法門御裁断書』下る。この写真は、藤原町史にも掲載されている。
10年余りの無住の時代を経験した明源寺は存亡の危機に追い込まれました。しかし、ここに傑僧(けっそう)正晃(しょうこう)が登場し、見事に再興を成し遂げます。明源寺第11代住職となる正晃は、明源寺第9代住職・怒正の次男である玄門(朝日町小向の浄泉坊に入寺)の孫でした。明源寺の同行衆は、10年余りの間、ひたすら正晃の成長を待っていたのです。正晃の明源寺入寺は、享和(きょうわ)元年(1801年)11月20日の事でした。このように、辛うじて第1代の正道の血筋は守られる事となりました。
 
さて、本願寺では大変な事態が、享和元年に起こっていました。『三業惑乱(さんごうわくらん)』と呼ぶ、全国の末寺をも巻き込んだ教義上の意見の対立が起こり、浄土真宗本願寺派は解体寸前に追い込まれました。本山・本願寺は機能が停止となり、事態の収拾能力を過失し、ようやくにして幕府の介入により、文化3年(1806年)に決着しました。本願寺第19代本如(ほんにょ)上人は、11月6日付けで『法門御裁断書』を下し、本願寺教団の教義の統一を計りました。この書が、明源寺にも下り、今も大切に保管されています。
 文化7年(1810年)3月7日、本願寺の本如上人より
大谷本願寺親鸞聖人御伝絵(4巻)が下付されています。通称は、御伝絵と呼ばれ、親鸞聖人の御一生を4巻の巻物に表したものです。毎年の報恩講には、必ず、本堂内陣余間にお掛けいたします

又、文化8年(1811年)11月17日には、本如上人より信入院様(文如上人)御影を下付されています。この様に、明源寺は無住の時期を除き、歴代の本願寺宗主の御影を必ず下付されています。この理由は、本願寺の代替わりに際して、前宗主の御影(ごえい)をお受けする事は、本願寺教団の長である宗主が、宗祖・親鸞聖人に代理者として、願主である住職の地位・身分を確定する意味があったのです。一方、願主の方は、下付された御影の人物の命日に、各地に集まりを持ち、人々の教化に励みました。ですから、どうしても前門主の御影は必要であったのです。
文化10年(1813年)7月14日、明源寺は
『三之間』に昇進しました。この時の感激を、正晃は次のように書き残しています。『三之間に昇進、7月14日に御免。御免書は9月20日に明源寺に頂戴』と記されています。寺格である三之間については、18世紀前半の明源寺を参照してください。正晃の妻は、東禅寺の近藤重左衛文の娘でした。この二人には4人の子供がありました。19世紀明源寺系図を参照して下さい。

文政6年(1823年)5月、東禅寺村は文政の大火事と呼ばれる大火事に見まわれ全戸が消失したと言われています。文政12年(1829年)の桑名藩の記録によれば、東禅寺村の個数は78戸、新町新田の個数は19戸と記録されており、この戸数のほとんどが類焼した訳です。文政7年(1824年)に、桑名藩寺社奉行に提出した『明源寺由緒書』には、『本堂はさる5月に東禅寺大火事につき、消失つかまつり候。再建つかまつらず候。消失した本堂は、東西7間半、南北7間、屋根瓦葺き。庫裡は、東西10間、南北3間。屋根瓦葺きにござ候』と書かれています。

明源寺本堂・庫裡の再建
 文政6年の大火事により、明源寺は大きな痛手をおいました。本堂・庫裡の再建は、東禅寺村全体が丸焼けの状態であり、容易に着手することができませんでした。
 庫裡の再建から進められました。現在の庫裡は、東西10間、南北3間です。伝承によれば、『本来は本堂再建に集められた木材を使用して建てられた』と言われており、その為に、欅(けやき)をふんだんに使用して建てられており、玄関土間(どま)の丑(うし)も、直径70センチの松を何本も組み合わせています。170年程経過した今日でも、松からは、盛んに脂(やに)を吹いています。この庫裡は、本堂再建まで、本堂の変わりができる構造に成っています。

 この度の、蓮如上人500回遠忌引法要(2000年4月8日9日)でも、庫裡の唐紙を外し、450人分のお斎を2時間半で終了させています。玄関から三間(ま)続きの唐紙を外せば、36畳分の大広間が出現する構造と成っています。このような形式を内(うち)道場の形式と呼んでいます。この大広間の正面に御内物(おないぶつ)が位置します。本堂再建までは、御内物にご本尊を安置し、両脇には、脇壇がありました。現在は、脇壇の部分を書庫に使用しています。この庫裡は、天保9年(1838年)に完成しています。

本堂再建

本堂再建は、大変な労力と年月がかかりました。本堂再建にかかわる次のような伝承が伝えられています。旧東禅寺村では、『庫裡の再建、本堂の再建と立て続けの大普講が続いたので、明源寺同行衆は3年間農作業が出来ず、本堂再建の途中に力つき、その後再び普請作業にかかり完成した』と伝え、旧下野尻村では『3年続く大普請のために、農作業ができず、明源寺同行の田圃は稗(ひえ)がはえた』と伝えられています。このように、明源寺本堂は同行衆の奉仕の結晶として完成しているのです。中でも、旧西野尻村同行の中村勇五郎は本堂再建に全生涯をかけた人でありました。住職の正晃は、次のように書き残しています。『嘉永(かえい)4年(1851年)10月7日、本堂再建につき、二人なき世話人であった門徒、中村勇五郎往生す。この人、本堂再建に全生涯をかけ、10余年の間、一日も欠かさず西野尻より通い来る。家財をなげうち本堂再建に人力す。行年46才の生涯なり。』と記されています。この事を証明する事が、昨年の蓮如上人500回遠忌法要の準備の最中におこりました。御同行(おどうぎょう)の懇志により、本堂床下の板の張り替え作業を実地した所、本堂内陣余間の床板、外陣の床板には、中村勇五郎の名前が入った床板が大量に見つかったのです。このように、明源寺本堂は、御同行衆の物心両面に渡るご苦労とご支援の結果、嘉永元年(1848年)に一応の完成を見たのです。文政6年の東禅寺大火事以来、実に25年の歳月が流れていました。この間、本堂内部に必要な仏具も整えられていきました。現在も使用している喚鐘(かんしょう)は、天保13年(1842年)12月に納められております。制作者として、桑名・広瀬与左門藤原政次の銘と足下山円頓院明源寺精舎の銘が入っています。ただ、残念なことは員弁の三梵鐘と呼ばれた大鐘の事です。治田鉱山の金を大量に使用した大鐘は、昭和19年(1944年) 部より持ち出され、以後帰らずとなりました。 完成した本堂は。入母屋(いりもや)造り、瓦葺き、正面中央から向拝(ごうはい)三間(けん)をつけ、向拝の組み方は、出三斗(でみつど)、両端柱上では連三斗(つれみつど)、中備も出三斗で、柱上・中備を問わず手挟(たがさみ)を入れています。正面柱間は7間(けん)とし、主屋のまわりは円柱、広縁と背面外回り三方に角柱を建てています。 平面は、中央三間(けん)左右対称、内陣・両余間(よま)・矢来内、外陣を設け、正面に一間(けん)通しに吹き放しの広縁を取っています。正面と両側面前半の三方に、落縁。内陣・両余間より後方は、入側を取り組んで落間、後堂を設けています。

江戸時代も最晩年のこの時代に成ると、明源寺御同行の中でも、御剃刀を受ける為に京都に出向かれる方が出て参りました。数人の方が、本願寺宗主から御剃刀を受けられたとの記録が残っています。又、蓮如上人の後旧跡を参拝するのも盛んであったらしく、蓮如上人ゆかりの吉崎御坊に参詣するために下野尻を出発されましたが、途中にて病で倒れ、近江国で亡くなられたとの記録もあります。何れにしても、旅に出るという事は命がけの覚悟がいったようです。当時、ペリーの来航、安政の大獄、井伊大老の暗殺と世相は騒然としており、これに追い打ちをかけたのが、麻疹(はしか)の大流行でした。文久2年から翌年にかけて、全国で麻疹が猛威をふるいました。明源寺過去帳でも、幼児の死亡が相次いで記録されています。『麻疹はやり、京・大坂・江戸にて大流行する』とも書かれています。人々は大いに同様を重ね、時代は大きく変わろうとしていました。一方、正晃は天保3年(1832年)12月27日には、本願寺宗主廣如(こうにょ)上人から御染筆六字名号、天保九年(1838年)10月25日には、同じく廣如上人より、信証院様御影(蓮如上人)と信明院様御影(本如上人)を下付されていますが、六字名号を始めとして、数多くの品々が大正時代に持ち出されたままに成っています。このように、波瀾万丈の生涯を送られた正晃は、慶応3年(1876年)2月29日に往生されています。彼は、死の直前に過去帳に自分で法名を書き残しています。法名は次の通りです。『円頓院川上堂足下山明源寺、中興開基、還源社正晃大純』と記しています