(1)蓮如上人のお声が聞こえませんか?
 皆さん、500年の時空を越えて、蓮如上人のお声が聞こえて来ませんか。500年の昔の人物の声など聞こえて来る訳がないと思われるかもしれませんが、決してそうではありません。蓮如上人のご生涯を学べば、お声が今なお聞こえてくるのです。そして、混迷する現代社会だからこそ、蓮如上人のお声を聞くことが是非とも必要なのです。




















(2)蓮如上人とその時代
 蓮如上人は、応永22年(1415年)に、京都東山大谷本願寺で、本願寺第7代宗主である存如上人のご長男として誕生され、明応8年(1496年)に往生されています。
 85年のご生涯でありました。上人が生き抜かれた15世紀という時代は、打ち続く災害や政治混乱により応仁の乱が起こり、日本全国で戦いが絶える事のない時代でありました。又、従来の価値観・社会体制が崩壊し、人々は何を生活の支えにしてよいのかも全く解らない時代でもあったのです。このような時代の中で、蓮如上人は、親鸞聖人のみ教えを誰にでも解るようにお説きになり、人々は争って蓮如上人の基に集まりました。全国いたる所にお念仏の声が広がり、本願寺の揺るぎない基礎を築かれたのです。

(3)蓮如上人のご生涯
 蓮如上人は応永22年(1415年)に、本願寺第7代宗主存如上人の長男として、京都東山大谷本願寺にて誕生されました。上人誕生当時の本願寺は、『さびさびとしておあします。参詣の人一人としてなし』と呼ばれた状態であり、今日の本願寺からは想像もできない程の寂れきった状態でした。
 上人が六歳になられたとき、母上は上人を残して、ひそかに本願寺を去られました。上人のご生母は本願寺で働いていた方で、いつしか父上の存如上人とお互いのやさしい愛を育まれ、上人が誕生されたのです。ところが、26歳になられた存如上人に縁談が持ち上がったことを知られた母上は、絵師にたのんで鹿子の小袖を着た布袋丸さま(上人の幼名)の絵を描かせて形見とされました。「あなたは、親鸞聖人のお念仏のみ教えを正しく伝えて、世の中の苦しむ人々の力になってください。母はいつもあなたを見守っています。」上人は、いくたびか聞いた母上の言葉を、胸の奥に秘めて、健気にご幼少の時代を過ごされました。蓮如上人は、ご成長と共に、母上が残された言葉を心に刻み、勉学に勤しまれる日々を送られました。17歳のとき、青蓮院で得度をされ、法名を「蓮如」、諱を「兼寿」と名乗られました。
 それからのご修学は、貧しく苦しい暮らし向きの中で、ひたすら浄土真宗のみ教えを学ぶことに情熱を傾け、お励みになる日々でありました。やがて、人々の求めに応じて、親鸞聖人がお著しになったお書物を父上に代わり書写して与えられるなど、人々の期待に十分に応え本願寺のあとつぎにふさわしい、立派な方にご成長になっておいででした。
 蓮如上人が43歳のとき、存如上人がなくなられ、本願寺第8代目をお継ぎになりました。上人は、親鸞上人のご精神にのっとって、これまでの儀礼や形式に偏りがちであった伝統を改め、思い切った変革をなされました。それは、人々と平座でひざを交えて仏法の話し合いをされたり、本尊を統一されて『帰命尽十方無碍光如来』の十字名号を人々に与えられることなどでした。この頃は、諸国は飢餓や戦乱が絶えず、長い戦国時代を迎えようとしていました。しかし、そうした中でも、人々は次第に力を蓄えるようになり、各地の農村で人々の自治的な組織である惣村が生まれてきました。上人は、時代の変化をしっかりと捉え、積極的な伝道を展開されました。その熱烈な伝道によって、門徒の輪は、近畿から北陸、東海に急速に広がりました。しかし、蓮如上人の伝道はまた比叡山の衆徒たちによって妨害されるところとなり、寛正6年(1465)に大谷本願寺は打ち壊されてしまいました。
 京都を出て、近江へ難を避けられた蓮如上人は、さらに文明3年(1471)越前吉崎に諸点を移されました。ここで「御文章」による伝道を盛んに行われ、また仏前の勤行を『正信偈・和讃』に改め、門徒の人たちとともにお勤めをし、み教えを分かりやすく理解できるようにされました。そして今日の私たちが理想とする全員聞法・全員伝道の教団へと変革されていったのでした。さらに、「南無阿弥陀仏」の六字名号を墨書してたくさんの人に与えられました。こうした、親鸞聖人の”御同朋・御同行”のお心が生きた教団は、新しい村づくりの心の支えともなり、村々を挙げて本願寺の門徒になってきたのでした。しかしながら、人々の間では旧仏教や政治に対する批判の声があがり、ついに武装して一揆がおこるようになりました。上人は争いを鎮めようと、文明7年(1475)に吉崎を退去されました。吉崎を出られた蓮如上人は、河内出口を中心に伝道を続けられますが、文明10年(1478)に京都の山科を拠点に定め山科本願寺をお建てになり、周辺にたくさんの人々が移り住む大きな寺内町が生まれました。上人は、たいへんなご苦労を重ねられましたが、極めて短い間に、お念仏のみ教えは北海道から九州にいたる全国に広がりました。そして、上人75歳になられた延徳元年(1489)に、寺務を実如上人に譲られ、山科の南殿を隠居所とし、さらに82歳の明応5年(1496)大坂石山に坊舎を建てられました。この頃から、長年のご苦労が募ったのでしょう、体調を崩され、ついに、明応8年(1499)3月25日、山科本願寺で85歳の生涯をお閉じになったのでした。上人は「一宗の繁昌と申すは、人の多く集まり威の大なることにてはなく候。一人なりとも人の信を取るが一宗の繁昌に候」と戒めておいでになりますが、上人のご一生は、ひとえに阿弥陀如来さまのお心を人々にしらしめんがためのご生涯でありました。


平成6年(1994年)一月日の門徒総会にて、蓮如上人500回遠忌法要を平成12年4月に厳修させていただく為に、明源寺長期計画を提案し、審議の結果承認を受け、ここに6年間の歩みが始まりました。長期計画は、本堂仏具の修復・書院の改築・境内の環境整備・土塀改築と新築・境内便所・書院便所の新築と多方面に渡りました。
 蓮如上人のご苦労を少しでも学ぶべく、平成8年(1996年)より一泊二日にて、ご門徒と供に北陸地方の蓮如上人ご旧跡を参詣する研修旅行を実施して参りました。そして、蓮如上人500回遠忌法要が、平成10年(1998年)に本願寺にて厳修されますと、全国から40万人の門信徒の方がご縁を結ばれました。明源寺からも、員弁組の団体参拝の一員として、70名の方が参詣されています。さらに、ご門徒宅の年忌・報恩講に際しては蓮如上人をご理解・ご紹介すべく、法話は全て蓮如上人の『ご文章』からお話をさせていただきました。現在、日本経済は不況の真っ最中であります。暗いニュースばかりが目に付く今日この頃です。従来の価値観が崩壊し、社会構造の変革が厳しく世界から迫られている今日程、蓮如上人のお心を学ぶ必要がありました。何故なら、蓮如上人の生きられた時代は,応仁の乱とよぶ日本の一大変革期に当たっており、従来の価値観が全て崩壊した時代でもありました。この大変な混迷の時代に、お念仏という灯火を掲げられ、人々の心を包み込んだ人、それが蓮如上人でありました。真摯(しんし)に、蓮如上人の声に耳を傾ける時、蓮如上人は500年の時空を越えて、ご文章を通じて蓮如上人の声が聞こえるのです。ここにこそ、蓮如上人の500回遠忌法要を厳修させていただく意義があると思うのです。この蓮如上人のお心をいただき、明源寺では「平成の御文章」というべき、インターネットによるホームページ造りを進めています。
 門信徒の皆様には、物心両面にわたってご無理とご支援を頂戴し、6年間に及ぶ準備に邁進させていただきました。法要日程も平成12年(2000年)4月8日9日と決定し次第に法要は近づいて参りました。
一週間前の週間天気予報では、4月8日は曇り、9日は雨の予報がでており、何とか外れないものかとただそればかりが気になっておりました。


「4月2日」
仏教壮年会の皆様による境内大掃除、東善寺のご婦人方によるお磨き、役稚児の練習が行われ又、明源寺立華クラブの皆様による立華作業も時間との競争に成っていました。「4月5日」桑名ぬし与仏壇店社長自らが、修復なった仏具の最終お掃除をしていただき、皆様にご寄進いただきました仏具類は一段と磨きが増しました。

「4月6日」
本堂内陣の打ち敷・お供物等を荘厳させていただき、法要直前である事を改めて確認いたしました。

「4月7日」
 40数名の係の方が平日にも拘わらず出ていただき、本堂内部の整備、境内の掃除、飾り付け、稚児行列の道の掃除作業、お斎の準備に当たっていただきました。役稚児の最後の練習も行われました。夜,空を見上げれば 満天下、星が輝き、明日からの晴天が 約束がされたと心から有り難く思い、今まで門信徒の皆様と供に歩ませていただいた、6年間の歳月が報われると思わず合掌した次第であります。

「4月8日」
午前8時より、120名近い役員の方が集合していただき、各役割の確認と準備をしていただきました。午後2時より、講内法中衆(10ヶ寺)出勤のもと、宗祖・親鸞聖人降誕会が厳修され、100名近くの方が参詣していただきました。法話は羽川俊昭師でありました。午後7時より、津軽三味線の夕べが開催され、津軽三味線の持つ迫力に圧倒された次第であります。150名以上の方が参加していただき、その魅力を堪能していただきました。

「4月9日」
 午前8時より役人の方は集合していただき、最後の確認をしていただきました。午前9時より、住職継承法要が厳修され、60年間皆様に助けられつつ住職を勤めてまいりました頓了が勇退し、新住職として了俊が明源寺第18代の法灯を継承いたしました。尚、この時にあたり門徒総代・清水三之氏より、明源寺門信徒を代表して、頓了に対して「蓮如上人は本願寺中興の人、頓了前住職は明源寺中興の人」と前住職にとり何よりの餞の言葉を送っていただきました。
 年行事のご婦人により準備をしていただいておりましたお斎(とき))も最高潮に達しており、当初400名の予定でありましたが、急遽50名分を追加していただき急場を凌(しの)ぎました。又、用意いたしました当日記念品400袋も午前中にてなくなり、早速150袋を追加注文致しましたが間に合うはずも無く大変申し訳のないこととなりました。お稚児さんの数も、今回320名という人数であり、正午すぎより稚児係が持つプラカードの周囲に集合されており、稚児行列の数は1000名に達していました。稚児宿(清水三之氏宅)では抹茶接待の後、親戚・講内法中20名による讃仏偈の勤行が修行されました。鐘楼堂より打ち鳴らす大鐘の音を合図に、稚児行列1000名が動 き出しました。数流の仏旗が風にはためき、名古屋別院職員が奏でる楽の音が心地よく 響く中で稚児行列は明源寺目指して進みました。最後尾は、役稚児20名に挟まれて、朱傘も鮮やかに導師が行列の最後を締めました。午後2時より、200名を越える参詣者と供に、蓮如上人500回遠忌法要が厳修されました。この法要は2年前に厳修されました本願寺の500回遠忌法要の作法通りに厳修され、蓮如上人の遺徳をしのびました。